見るな、ただ応答せよ

住友文彦

イタロ・カルビーノは1972年の著作『見えない都市』[1]で、皇帝が自分で把握しきれないほどに膨張した国に存在する数々の都市についての記述を、分類カードのようにして列挙してみせた。それらを、ただ次から次に各都市の特徴を並べているだけである。それらは、マルコ・ポーロの語りという形式をとっており、それを聞く皇帝はただ話しを促し続けるのだ。綿々と続く語りはそのまま小説の記述として、読者にも聞き手として皇帝と同じポジションを与えている。都市と都市の間の関係や上部構造として読者に示されている物語はないといってよい。したがって、この書物を読み終えた読者が、なんて広大な国を築き上げた皇帝がいたのだろう、とか、都市とはそれぞれ実に様々な形態や歴史を持っている、などと考えることはまずない。読み進めるうちに忘却のなかへと消え去ったある都市への追慕を認めるか、堆積していくテキストの膨大さに眼を眩ませるか。いずれにしても何が書いてあるのか、よりも、どう読むのか、という読者としての自分が炙り出されていくはずだ。
この小説の記述方法と同様に、私たちは普段は意識することさえない数限りない「見えない出来事」に囲まれて生きている。なのに、急激なメディアや科学の発達は、それらを次々に顕在化させて、知り得ないような世界の出来事を「手に取るように」可視化させているようにみえる。遠い場所で起きている紛争、政治家や芸能人のゴシップから遺伝子情報の解読まで、知り得なかったものが知り得るものへと次々に換えられていく。大勢のマルコ・ポーロが、一般の市民へ溢れかえる情報を報告してくれる時代である。その多くはモニターや紙面から切実さや新しさを訴えかけてくる。それらの情報は切実さを装ってはいるが、なぜか次々に私たちの脇をすり抜けていく。観察者として、マスメディアを通して語られる世界に自分を接続して考えることなど、ほとんどない。
カルビーノの作品が、現実として進行している情報化社会のアナロジーとして読める可能性は魅力的に違いないが、私たちは皇帝のようにひとつひとつの報告を辛抱強く聞くことなどないのだ。自分とは関係のないことが、沢山世の中で起こっているという感覚が私たちを支配している。
現代のマルコ・ポーロ=マスメディアは、読者=観察者に自己参照の機会を失わせた。その典型的な例をひとつあげよう。1980年代の後半に日本では、オタクという言葉で、情報としてやりとりされている記号を巧みに操作する能力を肥大化させ、自分と外界とを結ぶことを拒絶する傾向のある人を指し示した。多くのオタクは、あちらとこちらの区別が明確で、特定のものにしか関心を示さず、自分自身を含め、関心の外にあるものには徹底的に盲目的である。
しかし、世界はあまりに雑多で、本質的には自分とは関係ないのないものだらけである。『見えない都市』の記述が、本筋と呼べるような物語を欠落させ、意味のない描写を繰り返しているように。オタクは、自己と他者との間に勇敢に境界線をひき、複雑さを引き受けずに世界を完結させる。
北原愛の作品で、逸話的なイメージが複数重ね合わされていること、扉や門に仕切られた迷路の形をとっていることは、単一の視点による俯瞰が不可能で、様々な出来事が異種混交した私たちを取り巻く世界を思わせる。そして、鑑賞者は、そのなかへと足を踏み入れる。投影されたイメージのなかに自分の影を重ね合わせたり、空間を行き来する。その結果、自分の行為が明瞭な意味を持つことはけっしてない。トランジット、中間状態のまま、彼(彼女)は取り残されるであろう。
進むべきルートを決められていない空間の中を歩く感覚に対しても、不自然に自らの身体をねじらせることで、自分の身体感覚を得る機会を与えているようである。ただそこにある世界に、身を置いているという感覚を。
中間状態は、世の中の複雑さへ意味を与えたりするような志向性を回避し、受動的な態度をとることを要求する。一般的な社会生活において、中間状態はまれにしか存在しない、といってよいだろう。人々は境界線を明確にすることに躍起になり、その内側で自分が果たすべき役割に依存する。しかし、依拠するものがなければ、その都度その都度、自分の位置を確かめるしかない。複雑さや異種混交性は、このように経験的なものである。眩暈をすること、茫然自失となることの受動的な経験のなかに、世の中の複雑な豊かさと自分の身体をつなげる契機があるのだ。複雑な世界が、ただそこにある、と言われただけではなく、そこに身をおいているという経験的な感覚が重要なのである。

境界線は、しばしば何かに対する責任によって決定されている。それは、例えば、国家、習慣、仕事、ジェンダー、お金、祖先などに対する責任として領域が定められているのだ。あらかじめ与えられている責任を果たすことは、何かを見限ることでもある。その外側にある出来事をその都度捨て去りながら、選択を実践する。国家間の衝突では、個人的感情を捨て去り、国民としての役割によって利害を計るべきとされる。
いっぽうで、今日もどこかで起きている紛争が、どれも「終わりがない」「目的がない」としばしば修飾されるのは、ある意味当然である。なぜなら、誰も片方の優位性を信じるきることができずにいるからだ。境界線の向こう側への想像力が働けば、向こう側への行き来を遮る境界線の機能について誰もが疑問を持つ。イスラエル兵であっても、侵攻するパレスチナの街に無垢な子供の姿を見れば、自分の国家に対する役割を疑うことがある時代なのだ。同様に、社会的なルールから外れているとされる存在、例えば難民やホームレスなども、私たちは意識のなかから除外して生活していくことなどもはやできなくなるのだ。
様々な境界線を横断する運動によって、自分の位置を確認することは、政治的な問題であると同時に私たちの知覚の問題でもある。人工知能の研究では、ロボットに判断をする能力を与えるためにあらゆるケースを想定したプログラムを搭載させることは不可能であると考えられている。特定の条件の中でしか機能しない人工知能は、基本的にただの機械である。予測不可能な事態に対応する能力を、人工的に作り上げるには、外界から受け取った情報によって次から次に行動計画を書き換える方法が適している。依存すべき包括的なプログラムはなく、出来事の連続に対応できることが優先されるのである。この応答可能性[2]こそが、出来事の境界線を必要としない私たち人間が本来持っている知性の再生として求められているのではないだろうか。
中心的価値が崩壊し、境界線が曖昧になること、つまり中間にいること、とは、あらゆることから逃れられないということである。当事者であり続けるのである。境界線に囲まれていれば、責任の範囲は定められている。外側のことなどお構いなしである。しかし、宗教や信条が違うものが傷つき、倒れていれば、その姿にまったく個人としての感情が突き動かされる。そのことが固定的だったはずの境界線を無効にさせる。定められていた責任の座から、応答可能性という身体的な態度を生じさせることはけっして容易なことではない。しかし私たちはそのような知覚の準備を進めていく必要があるのではないだろうか。

図録『AïKitahara1992-2005』(2006年出版)収録

[1] – イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』(米川 良夫訳、河出書房新社、1977年)
[2] – “response”(応答)と“ability”(可能性)から成る、という解釈による,“responsibility”の日本語訳