アートのモデルとしての建築

ラーマ・カザム
2019年

ピーター・オズボーンは著書『Anywhere or Not At All』で、19世紀には“絵画”が芸術を指す言葉だったように、1960年代には“建築”的なものが、新たに芸術を指す言葉になったとはいわないまでも、芸術のモデルになったと主張している。つまり、“建築”は今では建物の設計、建造といった実践に留まらず、芸術の空間性の一形式になっており、その形式においては、発想が特定のものに縛られることなく、多様な素材と形態で表現――または、空間化――されるようになっている、というのだ[1]。 建築が芸術のモデルとなり、枠組みとなりうるという発想は、フランス在住の日系アーティスト、北原愛の作品にふたつのレベルで深く根付いている。あるレベルでは、相互に関連し合うシリーズ作品を様々な素材と形態を用いて制作しているという意味で、また、それとは別のレベルでは、建築の重要な前提条件や構成原理を参照し、疑問を投げかけて再公式化するという意味で、北原はまさにオズボーンのいう芸術の空間性を実践している。
《空中の家》(2017年)という、『オズの魔法使い』の空飛ぶ家を鑑みた作品を考察してみたい。建物は重力から逃れられないという前提に異議を唱えるように、この家は文字通り空中に浮かび上がっている。さらに、横浜市の様々な地区をベースにした架空都市のモデル、《浮揚する街》(2018年)は、重力という足かせから解放されており、コンスタント・ニウヴェンホイスが《ニュー・バビロン》プロジェクトで提案したような、社会的交流および社会的交換の新たな形を示唆している。ニウヴェンホイスは、《ニュー・バビロン》プロジェクトで、地上から浮かんだ連続する構造物を用い、創造的行為というノマド的なライフスタイルに基づいた新たな文化を提唱したが 、北原の《浮揚する街》にはそれに通ずるものがある[2]
建築がアーティストにとってモデルであるとすれば、個々のアーティストによってその解釈は異なる。オズボーンは、保守的な作品群と先進的な作品群を区別して考察し、レイチェル・ホワイトリードによる、ロンドン市内の家屋内部を型取りした作品群は、既存の形式が互いに共存するモダニズム彫刻の再来とみなされるだろうが、ゴードン・マッタ=クラークの急進的なまでにカテゴリー横断的な仕事は、既存の形式を批判し、効果的な緊張感を生み出す、としている[3]。 マッタ=クラークは、《円錐の交差》(1975年)で、解体が予定されている集合住宅の建物の壁に大きな穴を穿ち、既存の建築規範における緊張と反発を露呈した都市に向ける新たな視点を提示した。北原愛の空中に浮かぶ作品も同様に、そのような反発を露呈しており、ホワイトリードではなくマッタ=クラークの作品と共鳴する。
北原愛は、家や都市などの完成した建築のみならず、建築を象徴する構成要素である壁とも向き合っている。《Apesanteur(無重力)》(2019年)は、“apesanteur”というフランス語の単語をつづる文字で構成されるが、それらの文字は壁に半分埋まっている。つまり、どの文字も一部だけが壁から突き出していて、外側と内側、私と公の違いを、さらにそれらが文字だという点に着目すれば、意味を成すものと成さないもの、読みやすいものと読みにくいものをも際立たせているのだ。ここでは、壁はもはやただの仕切りではなく、熟考と拮抗の場となっている[4]
他の作品は、仕切り、境界および壁の社会政治的な意義を探究する。例えば、《Eruption(噴出)》(2019年)という作品は、北原の出身地である神奈川県の形を幾重にも重ねたらせん状の構造だが、境界線が何かを隔てるものでなくなり、政治的要素を切り離され、もっぱら実用性を排除した意匠となっている。同じシリーズの《白い境界》(2016年)という作品は、崩れかかった白いレンガの壁で構成される。白い壁は、二本の川が合流するあたりの河岸をなぞっており、人が定めた境界線は川が作り出した自然の境界線に比べるとずっと脆いということを暗に示している。一方、同じシリーズの作品に、透明のガラスレンガを採用したものがある。ガラスレンガの壁は、向こう側で起こっていることを隠す力を奪われる一方で、壁というものが通常の機能的な役割から解き放たれるとき、平等主義的になれるということを指摘している。オズボーンが指摘するように、建築が現代アートの批評性に寄与するのは、単なる空間ではなく、ジル・ドゥルーズのいう“任意空間”に類するものである。つまり、なにものにも規定されない結びつきができるところに可能性があるのだ。
北原愛の建築規範への抵抗は、さらに遠回しなかたちをとることもある。《昇華》(2016-2017年)は、多くの磁土の滴が上に向かって垂れる作品で、重力に抗うというテーマを建築から離れた表現に置き換える。その一方で、折ってから広げられた折り紙のモデルシリーズ(2013-2014年)は、さらにもうひとつの建築的なキーワードである“形”の永続性に疑問を投げかけている。折られていた形の折り目は残っているものの、もとはどんな形をしていたのかを確認することは不可能だ。最後に、《一人用の建築》(2010年)について考察しよう。この作品は、極限までそぎ落とされた球形の構造物だが、また別の形態と素材を用い、北原愛の作品に共通して取り上げられる問題を反復している。つまり、有形と無形、公と私、内側と外側といった、建築に内在する区別にいかに挑戦し、建築をいかに自由にして制約から解放するかという問題を提起しているのだ。


[1] Peter Osborne, Anywhere or Not at All, London and New York, Verso, 2013, p. 141-142.
[2] See https://stichtingconstant.nl/new-babylon-1956-1974
[3] Peter Osborne, Anywhere or Not at All, op. cit., p. 145.
[4] Ibid., p. 149.