北原愛、魅惑と囮(おとり)の狭間で

ジャン-シャルル・アグボントン-ジュモー
西山雄二 訳

0.0 北原愛のすべての作品は罠または囮(おとり)である。この二つの語は策略、さらには嘘という語の類義語である。すなわち、彼女の作品は、この語の全幅の意味で、観客の好奇心を暴き出すべく仕組まれた物理的ないしは視覚的装置なのである。それらの装置はインスタレーション、もしくは、英語風にdistributed sculpture(配置、配役された立体作品)と呼ぶのにふさわしいものである。

0.1ラテン語で好奇心(curiositas)は、第一に何らかの事物への配慮や関心である。この治療的(curative)、司祭的curiale)とさえいえる感興は、フランス語では、新しい事物を習得し、その知識を獲得し、認識するという傾向によって影をひそめている。この傾向はさらに、窃視とはいかないまでも、無遠慮さという意味にまで変質しうる性向である。また、好奇心をそそるものは、好事家や、美術のとも言える愛好家に探し求められる対象でもある。この言葉の語義領域が含むのは、否定的かつ軽蔑的な側面だけでなく肯定的かつ称賛的な側面でもあり、つまり、好奇心とは曖昧で両義的なものなのである。それゆえ、北原愛の作品は異なる次元で好奇心をかき立てると同時に、作品それ自体が好奇心の特性を備えているのである。

1.0 北原愛が気を配るのは、何よりも、ありきたりで平凡な、言ってしまえば価値のない諸々の事物や状況である。つまり、日常的な消費の対象、極めて所帯じみた生活背景である。例えば、ビスケットやアイスクリームのコーン、画鋲、紙やすり、ごみ箱、口紅、グラス等々、また、ある程度秘められた私的ないしは公的な場。こうした諸事物に彼女は無邪気な視線を投げかける。この視線によって、それらの事物の中で――もしくは諸事物の間で――原始的、始原的なものとは言わないまでも、いずれにせよ原型的なもの、さらに言えば端緒を開くものが呼び起こされ、再び覚醒する。それは、こうした事物が抱える豊穣さと平凡さが鈍らせ、抑圧しがちなある種の奇妙さ、ある種の不思議さだ。だから、作家(北原)にとっては、これらの事物の最も些細な部分でさえもが虚偽である。何しろ、こうした事物の無名性は夢幻的あるいは超現実的な驚くべき位階に潜在する真実をすっかり隠しているのだから。この見地からすると、いかなる事物も結局、囮あるいは罠なのである。

1.1ラ・ロシュフコーによると、「装われた虚偽こそが真理をうまく表しているのだから、これに欺かれたままにしておかないのは悪しき判断である」[1]。となると、北原愛の場合、偽装された真理こそが固定観念化された事物や公共の場でよくまどろんでいるのだから、これを語らせるままにしておかないのは悪しき行為である、ということになろう。というのも、いかなる人工物もそれぞれのやり方で彼女に物語を語っているのだから。それは、これらの事物が人間性あるいは個人の幼年時代の驚嘆する目に対して装ってはいるものの、時が経つと脱ぎ捨てられてしまう情動的負荷の物語である。そうしながら、彼女は過去も未来も欠いたこの時代を引き合いに出す。未だ物事が真実でも虚偽でもない時代、善悪が表裏一体であるようなこの時代を。なるほど、これは夢のような時代なのだろうが、一体何ゆえにこの時代は比類なき両義性を明確に顕わにするのだろうか。驚嘆や感嘆が恐怖や怖気から切り離すことができず、禁止と侵犯、窃視と観察、好奇心と残酷さとを切り離すことができない、そんな両義性を。北原愛のインスタレーションの奇想天外な発想の鍵はここにある。この鍵は、―昔々あるところに…―といった物語の予告や発端さながら、「問答無用なまでに別の時空へと隣接している。この鍵こそが想像物と虚構を形容する天真爛漫な手段たる嘘を告示することができる。ある語り手が明言したところによれば、『上手に嘘をつかなくてはならない、それが真実なのだから』」[2]

1.1.2 『リトレ仏語辞典』では、罠と囮という言葉を例証するための最初の引用文がまさにラ・フォンテーヌの寓話から引かれているのだが、ここに偶然をみてとるべきだろうか。

2.0普遍的な物語とはいわないまでも民間の物語や寓話によって魅了された空間で、もしも嘘と真実が同等なものだったら、時間は循環的となり、一切は可逆的になる。両義性はこのように諸々の事物や場の反転可能性や相互的置換を許し、これらを手袋のように裏返すことを可能とするのだ。

2.1 このために、つまり罠を仕掛けるために、作家はまず諸事物を元のコンテクストから抽出する。彼女は諸事物を普段の機能や使い方から逸脱させながら配置し配分する。かくして「鬼は内」[5]では、大量生産のアイスクリームのコーンがショーウインドー全体を覆う。また、市街用ごみ箱がギャラリーの真っ只中に設置される[21-23]。さらには、私たちフランスの風土にはまだ知られていない器械[12-13]、トイレの中で日本人の聴覚的羞恥を保護するためだけに特別に構想された器械……。

2.2 実際、「赤頭巾」[20]で実証されているように、中を空にした口紅がその中身で覆われることで、宿命(ファタル/fatal)と糞(フェカル/fécal)は韻を踏み、同じ一つの事物の二つの側面を構成する[i]。紅は通常、女性的魅力(appas)の一つを強調する為に使われるが、この紅が囮(appât)であることがこの語の二重の意味にしたがって明らかになる。一方、市街用ごみ箱からあふれ出す純白の蚊帳[22-23]はいわば、「彼女の独身者たちによって踏み付けられたとは言わないまでも里に帰された花嫁、さえも[ii] とみなされるだろう。というのも、観客はいわんやそれを踏みつけることをためらい、いわば、床に直に広がる薄く軽い蚊帳を汚すことを躊躇する。つまり、いずれにせよ、観客は罠(piége)に落ちる事をほぼ文字通りの意味で懸念するのだ。この語はラテン語のpedica(「足を縛るもの」)に由来するのだから。

2.3 「不快な事物に我々は魅力を感じる」とボードレールは言った。だとすると、北原愛の作品においては作品と同じ数だけの罠が見出される。もしも「夢と同様、物語が隠しているはずのものが幼児期の起源である」[3] ならば、彼女のインスタレーションはしばしば幻想を、つまり私たちの意識的な知覚から隠蔽されている面を隠している。そのために、彼女の作品は必ず二回見るのがよい、あるいは、何が問題なのか――このフランス語表現を文字通りにとれば、まさに«何が裏返るのか»となる――を見に行くのがよいだろう。「鬼は内」[5]の反対側は、まず窪みとして現れ、次に私たちは無数のアイスクリーム・コーンのレリーフが、当然透明であるはずのガラスのウィンドーを覆っているのを察知する。なるほど、たくさんの男根でもあるたくさんのコーンは、通常は反対方向から消費されているのだ……。彼女は画鋲を逆向きに設置することによって、壁紙を装飾するバラの棘を視覚の及ぶ限り蘇らせる[6]。同じように、「もう一つの内側」[16-17]は立体パズルの可逆性と駆け引きをしている。このパズルが功をなして、一方では家屋の通俗さ加減(キッチュ)と現実味ある«田舎調»と、他方では建築の模型やミニマルアートの彫刻の«陰鬱さ加減(グリザイユ)»の間に均衡関係が築かれている。ところで、もし内側が外側に対して価値があり、その逆もまた然りならば、彼女はポケットミラーの「鎧」[26-27]によって、要するに見えるものと見えないものの混合を――完全に達成されることはないとしても――試みる。実のところ、「些か子供じみた方法で鏡を通り抜けようとして落胆している人達に秘密を打ち明けましょう〔…〕、[鏡の裏面に塗布する]錫(すず)合金を体に塗り、それで化粧して、鏡の前で自分を見張ってごらん」[4]、という次第なのだ。

2.4見えるものと見えないものが重なり合うために鏡を騙さなくてはならない以上、作家は無限に続く入れ子構造[iii]を利用することになる。総称的な人型のシルエットで切り抜かれた衝立(ついたて)がそれだ[28-32]。衝立は敷居や通路からなる迷路のように配置されている。訪問者はつまずかないようにしてこれらを通過しながら、入口と出口、裏と表、内と外、無声演劇の舞台と舞台裏――彼はここで場合に応じて受動的な俳優か能動的な観客となる――を見分けることがまったくできなくなる。

2.4.1たとえ肉眼では見えないものが完全に見えることはないとしても、別の感官の好奇心を掻き立てることで見えないものはそれでも感知される。「両棲類」[7]では、空のグラスにアルコールが――ただし«外側に»――入っていて、アルコールそのものを見る必要なく臭いだけでそれと識別される。その代わりスポンジの状態でこれに触ることはできる。ある日本人は恥らい深いあまりに、トイレの中で断続的に作用する音を介入させる事によって、自分を見えるがままにするとはいかないまでも、自分を垣間見えるがままにさせる。「水売り場(水の光線)」[5][12-13]は、滴り落ちる人工的な水音が耳朶に触れることによって、窃視が聴覚によってされ得る事を想定しているのだ。私たちが歩くすのこ板が想起させているサウナに入っていない限りは……。同様に、「ガラスの家」[11]でも触覚は視覚の代役を担っている。美術センターのホワイトキューブの中で展示されたこの作品には、壁を覆う、その白さで擁護されている紙やすり以外はまず何も見えるものがない……。しかし、作品のタイトルの建築的な隠喩(メタファー)の彼方あるいはその手前で、この内壁の触覚に重なり合う、食物に関する密やかな隠喩、つまり、どうしようもなく砂糖を想起させる隠喩に注意しよう。ここで喚起されている味覚は、ビスケットないしは少なくともその代わりをするもの――というのも見違えるほどに本物そっくりのプラスティック製なのだ――で実現された家の模型の作品における味覚でもあるのだ[14-15]

2.4.2 「語るとは食物を与えることである。それは完全なる口承性である」とある語り手は言っている。「言葉を摂取すること、口からではなく耳から吸収させることだ。語り手は言葉を内側から外側に通過させることで食料補給のメカニズムを反転させる」と、ニコル・ベルモンはさらに述べている[6]。北原愛に関していえば、彼女は物語の送り手と受け手の位置を逆にした。展覧会場にその捕われの身の残骸、つまり鎖と肘掛け椅子しか残されていないお姫様の物語がそれだ。いわば遅参者ともいえる訪問者が招待されるのは、この肘掛け椅子に座って、その無人の監獄で感じることを語るためである[10]。だから、お姫様の物語にけりをつける彼女の解放というエピソードが発端となっているのだ。さて、寓話の時代に時代の夜が時代の終りと合致するならば、出発点と到達点は互いに浸透する。「各時代それぞれの6個の箱」[25]と題された作品は、読むための郵便箱もしくは郵便箱のまわりの読むための手紙によってこのことを意味している。つまり、書かれた言葉は内側から外側に移行するのである。「海底の極楽」[3]では、数千の釣り糸が床から二メートルの高さに吊るされ、床を水の流れと同化させており、その下で目覚し時計が正確に六〇倍速く回転している。実際、釣り糸によって漠然とした脅迫感が漂っているが、それは、囮の不在が示唆するように、観客の潜在的な眼球摘出という脅迫感であろう。「アンチゴーン3部作」[24]も時間に対する慣習的な知覚を撹乱させる作品である。エンドレスに反復されるビデオ映像は、スーパーマーケットの入口で録画された回転扉とアントワープの海上交通を通じて、時間を見たり聞いたりする機会を与える。時間を狂わせること、我を忘れさせること、消費(とりわけ食品の)から解放されること、このインスタレーションが狙うのは特にこのような効果である。作品の中心にあるモニターは故障したかのように白い画面が続き、観客は幼児期の歓喜に満ちた非時間性へと送り帰されるのである[7]

2.4.3それゆえこの場合、語ることは、事物における言葉の具現化によって、観客に何でも信じ込ませること[iv]である。事物を幾分呆然とさせる無言の状態にある世界の過剰な語りであるといってもいい。それは幻想に対する眼差しを豊かに育むことであるが、このことをうまく証明しているのが、童話から着想を得た三次元の画像が飛び出す子供向け絵本を使って演出されている薄暗い劇場である[3335-38]。作家は絵本のすべての図柄を消して、スクリーン大の数枚へと還元する。次にトランジットの場所のスライド写真が投影される。その視野の中で観客は影と重なり合うと同時に影を纏った亡霊と化す、あたかもディビュタード[v] が自分自身のモデルであるのと同時に自分自身の愛人であるように。要するに、観客は影ノヨウニ移ウ[8] のである。観客ははかなさという言葉として具現化され、幽霊や亡霊の形象となる。まさに、はかなさという語が絵画にもたらす意味、「空ノ空、一切ハ空デアル」[vi](とどのつまり、一切は幻想にすぎぬ)という意味において。

3.0 「どこに入ってもどこに行ってもかまわないが、この小部屋だけには入ってはいけないよ」[18]において、訪問者は関連する異質な諸要素から成り立つ舞台装置によって罠にはまる。この装置は偶発的に視覚を誘惑し、隠喩に富んだ反発作用を含んでいるのだが、彼はそんな仕掛けの罠に落ちるだけでは済まされない。ここでは、作品という«公的»空間とエリコ・モモタニの以前のアパートという«私的»空間が混同される。その上、展覧会の招待状は、その実用的な性格にもかかわらず、演出の一部をなしている。この作品の要をなす«小部屋»の中を訪問者は歩き回るのだが、この部屋は展示空間を占めるべき多少とも中心的な作品[9]、周辺的・辺境的な作品[10] という機能をなすわけではない。そうではなく、この来訪が展示そのものと一体となっているのだ。さて、訪問者は渡された鍵を持ってアパートを上り、次に敷居を跨ぎ、小部屋の薄暗さの中を手探りし、やがて網膜がこの暗さを補正するだろうと期待する。この訪問者の行程は、いわば生中継しながらの体験によって自分を語るような物語――訪問によって喚起された両義的な憶測の物語――に一致する。物語の時間や作品の展示時間が展開される行為と完全に合致するのだ。作品展示の作者であり役者である訪問者は、招待状と同じカードに展覧会の逆字タイトルのスタンプを押すことで自分自身でこの時間に終止符を打つことだろう。もっとも、帰りがけに、建物の下ででこの経験を希望者たちに語るとするとすれば話は別だが[11]。北原愛はそれゆえ、極めて経済的な方法で、マイケル・フリードの「演劇とは様々な芸術の間に存在するものである」という豊かな考えを自分なりに裏付けている。そう、フリードは視覚的コードと言語コードの組み合わせの中にアンチ・モダンあるいはポスト・モダン芸術の演劇性の根源をみていたのだから[12]

3.1とどのつまり、北原愛の全作品は、時間と空間の可逆性に関するある程度妥当な憶測行為を構成する。彼女はこの可逆性の神秘を突き止めようとするのだろう。無意識は言語のように構造化されているというラカンの定式[vii] はよく知られているが、無意識の神秘でしかありえない、そんな神秘へと彼女は突き進む。しかし、言語の構造は構造の言語と同じものなのだろうか? この問いは留保したままにしておこう。いわば、罠――いかなる問いも罠を仕掛けるものなのだが――を罠自体に閉じ込めたままにしておきたい。ただ、日本語で空間を意味する«間(ま)»という語を想起してみよう。この語は物と物の間の一方向的ないしは排他的距離を示すのではなく、「空間に対する日本的経験を根本的に構成する要素。生け花で活用されるだけにとどまらず、その他あらゆる空間を構成するための秘められた要因をなす」[13]、そんな間隔を示す語である。この語に言及することで、北原愛をその日本的出自に一方的に帰着させようとは思わない。というのも、西洋人は統計的にみて「事物を知覚するが、それぞれを隔てる空間は知覚しない」のに対して、日本では「逆に、この空間が、間(ま)、つまり間隔を有する空間という語で知覚され、名付けられ、崇められている」[14] としても、エドワード・ホールと北原愛が各々の方法で証明しているように、やはり間(ま)そのものは、ただ文化的・歴史的違いないしは隙間として知解されうるものだからである。それ自体は知覚されず姿が見えなくとも間(ま)が差異そのものである場合に、間(ま)によってこうした違いや隙間はますます探り出される。換言すれば、間(ま)とは東洋/西洋、目に見えるもの/目に見えないもの、意識/無意識、フリードの言葉を用いるならば絵画/造形芸術, 論証/図形といったいかなる対立項とも同一化することなく、自己を挿入させ、自己を介在させる当のものなのである。したがって、いかなる文化や教説も、この間(ま)を産出し差異化するものを、一方のみ援用することはできないのである。


[1] 格言集二八二。
[2] Nicole Belmont, Poétique du conte, Paris, 1999, p. 62.
[3] Ibid., p. 63.
[4] A. Bonnier, « Le Tainsouverre », Revue d’esthétique, 1980, n˚ 1&2, p. 62.
[5]  「ドアを開けて欲しいなら、白い前足を見せてごらん」[34]という作品も参照のこと。この作品において聴覚は視覚を中継している。展示会でサウンド・トラックでドアを叩く音はするものの、三百もの出入り口には扉がない。
[6]  Op. cit., p. 89-90.
[7]  かくして、「童話は同時代人には全く関係のないものであるが、童話は時代錯誤的なものでもないし、その魅力は古臭さを感じさせるものもない。その深層において精神的なものを扱っている以上、童話は非時間的なのだ。『人間が克服したつもりでいる間違った迷信的信仰のうちで、今日私たちの中で生き残っていないものは一つとしてない。〔…〕人生の中である日起こったことがすべて、頑なに残っている。原初的な時間の竜は本当に息絶えたのかと人はしばしば疑うことだろう』(フロイト)。」Cf., N. Belmont, op. cit., p. 233.
[8]  旧約聖書 ヨブ記』、第十四章第一節。「人は花のように咲き出ては萎れ、影のように移ろい、永らえることはない。」実際、ウァニタス[地上の物事のはかなさを教訓とする静物画]において、花は時間の経過を象徴していた。
[9]  「好奇心には大そう魅力がありますが、それに負けると、しばしば後悔することになります」[8]に関しても同じことが言える。
[10] 二つの部屋の間に設置された「罪の指輪」[9]がそうである。
[11] この体験談は要するに、アラブの古い諺「住人のいない天国に入るに当たっては用心せよ、そこは地獄だ」(Edward T. Hall, La dimension cachée, Paris, 1971, p. 195からの引用)をめぐる一つのヴァリエーションとなるだろう。
[12] W. J. T. Michel, « Ut pictura theoria : La peinture abstraite et la répression du langage », Les Cahiers du MNAM, n˚ 33, automne 1990, p. 81からの引用。
[13] Edward T. Hall, op. cit., p. 188.
[14] Ibid., p. 99.

[i] <訳者訳注>
[i] やや分かりにくい一文であるが、北原の作品「赤頭巾」において口紅の素材はやや茶色く、この独特の色彩を筆者は糞に見立てている。運命的ともいえる女性的魅力をもたらす口紅と排泄物である糞、つまり妖美と汚穢が共鳴する点に筆者独自の作品解釈が伺われる。
[ii] マルセル・デュシャンの通称「大ガラス」と呼ばれる代表作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』の転用。
[iii] 入れ子構造とは、劇中劇のように、作品の内部に別の作品をはめ込む手法のこと。
[iv] 「何でも信じ込ませること」と訳出した仏語の言い回しはavaler des couleuvres。couleuvresは通常「蛇」の意味であり、後続の文章「事物を幾分呆然とさせる無言の状態」における「呆然とさせる(méduser)」と呼応している。méduserは固有名詞Méduse、つまり、頭髪が蛇からなるゴルゴン三姉妹の一人メデューサから派生した動詞であるためである。語るという営みが、作品において、観客と事物を共に魔術に陥れることに他ならないことが示唆されている。
[v] ディビュタードは最初の肖像画を描いたとされる古代ギリシアの陶工の娘。古代ローマの高級官吏・博物学者プリニウスの『博物誌』第三十五巻にその逸話が収められている。それによれば、ギリシャのコリントスのある陶工の娘が、夜更けに戦争へと旅立とうととする恋人の姿を身近に止めたいと思い、灯火に照らされて壁に映る横顔を燃え残りの小枝の炭でなぞって描いた、とされる。肖像画の起源についてのこの古典的伝説の特徴は彼女が恋人の姿を描くのでなく、恋人の影を直接写し取ろうとした点にある。
[vi] 『旧約聖書 伝道の書』、第一章第二節より。
[vii] ジャック・ラカンはフランスの精神分析家でパリ・フロイト派の統帥。意識を中心とする自我心理学に対して、ラカンは「フロイトに帰れ」というスローガンのもとに無意識を精神分析の理論的中心に据え直した。無意識が既に言語のように構造化されている以上、人間は言語の意味するものの主となることはできず、逆に、無意識という意味するものの次元こそが人間を人間として構成することになる。